加賀市医師会の歴史と歴代会長

 ここに収録いたしました歴代会長の写真は、1992年までに、前医師会長の竹谷喜平先生が大変ご苦労されて収集されたものであります。現在加賀市医師会事務局に大切に保管されております。
 今回、お許しを得て、本ページに紹介させていただきました。

 幕末から明治初期にかけ西洋科学の導入が競われていたころ、金沢では、現金沢大学医学部の礎となった種痘所の開設、医学館の開校という医学教育、医師養成の機関の設置がめざされ、北陸西洋医学の開祖黒川先生はじめ多くの先生方がご尽力されていた。

 当加賀江沼(大聖寺藩、大聖寺町)の地でも西洋の学問をまなばれた多数の傑出した先人がおられる。医学の関係のみに言及するが、大聖寺藩最初の蘭医として、シーボルトの門人であった竹内玄洞先生(1805-1880)がまず挙げられる。江戸に出、幕府の蕃書取調出仕、後、東京で開業、ハリスの肺炎を治療された。

 永らく大聖寺に住まわれ、いわゆる地域医療と後輩の育成に努められ、広く一般からも尊敬されていたのは、初代医師会長とされる渡邊卯三郎先生(1831-1881)である。金沢のように医学校開設の構想こそなかったようであるが、現代の加賀市医師会、および最も古い歴史をもつ公立病院のひとつである加賀中央病院はこの先生から始まったのである。

 稲坂謙三先生編「医制発布八十年記念物故会員追憶帖」/昭和28年12月22日(大幸英吉先生著、医事放談,1982.1.20に詳細文)によれば、渡邊卯三郎先生は黒川良安先生門下を経て洋学のメッカ適塾に学ばれ、その塾頭という大任を果たされた。明治の初頭から13年頃まで大聖寺の医師会の学術・交友の会のリーダーとしてご活躍され、同時に、江沼の地に病院を建設しようと尽力された。
 明治12年、塩屋地区に蔓延したコレラ撲滅のため稲坂謙吉先生が医学館から招かれ、寝食を忘れ防疫にあたられた。翌年、この事件がきっかけとなり、この地念願の病院「金沢病院分院(現公立加賀中央病院)」が設置されたのである。地域医療の中核を目指すこの病院の院長として稲坂先生が迎えられ大聖寺に移り住まわれた。この頃、渡邊先生はご多病であられたため、医師の会のお世話は稲坂先生がされていたようである。

 明治18年頃は、黒川先生の門を経て、適塾に学ばれた後、オランダに留学、のち金沢医学館でスロイス教授の講義の通弁ならびに教授を勤められた馬嶋健吉先生が主催された。

 次は、渡邊先生の御養子の松二先生が、また、明治37年から大正5年までは、澤田良達先生が会長をされていた。この頃には、内務省医師会規則による”医師会”であった(稲坂謙三先生記参照)。・・・以下、江沼郡医師会時代から加賀市医師会の歴代現稲坂先生まで、蒼々たる先生方が続き、良き加賀市医師会の伝統が守られている。


 お名前 
初代
渡邊 卯三郎 先生
 福沢諭吉をはじめ明治維新の原動力となった人物を多数輩出した緒方洪庵の「適塾」の塾頭を勤められられた後、永らく加賀市大聖寺にてご開業。大聖寺の医師会のリーダーとしてその名は有名、今日も伝えられている。1996年新築の公立加賀中央病院ロビーには業績など展示されている。
2代
稲坂 謙吉 先生
 黒川良安先生の甥。金沢医学館の第1期生。加賀地区のコレラ撲滅に尽力された。加賀中央病院初代院長。
3代
馬嶋 健吉 先生
 黒川良安門下を経、適塾にはいり、長崎に至り、藩命によってオランダに留学。帰朝後スロイス教授の通訳を勤められた。金沢大学医学部百年史
4代
渡辺 松二 先生
 渡邊卯三郎先生の娘婿。
5代
澤田 良達 先生
 
6代
坂井 迪太郎 先生
 
7代
澤田 税 先生
 
8代
笹田 順二 先生
 
9,11代
中曽根 包吉 先生
 
10代
井上 耕也 先生
 
12代=加賀市初代
稲坂 謙三 先生
 稲坂謙吉先生の御三男。
加賀市2代
正来 智定 先生
 外科医
加賀市3代
大幸 英吉 先生
 外科医。永らく加賀医師会長をつとめられた。
加賀市4代
竹谷 喜平 先生
 小児科医、高い学識とまじめで温厚なお人柄は患者さんはもとより、医師会員全員に慕われている。
加賀市5代
久藤 豊治 先生
 
加賀市6代
稲坂 暢 先生
 
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